びわ湖毎日マラソン大会が終了の方向で進んでいるらしい。国際大会などの選考レースのひとつなのだが、タイムが出にくいということから、多くの選手がびわ湖毎日マラソンを回避して東京マラソンにシフトしたのが原因のひとつらしい。そういえばさいたま国際マラソンも、同じような理由で代表チャレンジャーの部がなくなる。
マラソンがタイム重視に偏り過ぎている感がある。厚底シューズの登場で速さが注目され、そして「速い=強い」と多くの人が思い込んでいる。だが、マラソンにおいて速いことは、必ずしも強いとは限らない。42.195kmという距離の中で様々な状況の変化があり、それに適応して1番にゴールした選手が強いランナーだと思っている。
ボストンマラソンの川内優輝選手がまさにそれで、(失礼を承知で言うと)速さはないが強さは圧倒的で、マラソンはスピードがあれば勝てるわけではないということを証明してみせた。だが、フラットな高速コースばかりになると、速い選手が単純に強くなり、レースに駆け引きがなくなってしまう。
サブ2イベントで盛り上がってはいるものの、スピードの追求はどこかで収束し、そう遠くないうちに飽きられてしまう。速さだけを競いたいならトラックで42.195kmを走ればいい。マラソンはそうではない。単純に速さだけを競うものではないから、こんなにも人を魅了してきた。
箱根駅伝が盛り上がるのも、5区の山登りセクションがあるからだ。そこに障害があり、ハプニングが起きる。実際に起きなくても「何かが起きるかもしれない」と思うから、観ていて手に汗握ることになる。MGCファイナルチャレンジだって、選手同士の駆け引きがあり、難所の坂道が用意されていたから盛り上がった。
もうマラソンで駆け引きが行われることはない。それぞれの選手が設定したタイムで淡々と走り続けるだけ。世界記録を更新できているうちはいいだろう。だが、それが終わってからはマラソンは退屈なものになる。遅い選手が速い選手に勝つには、速い選手のコンディション不足や戦略ミスを期待するしかない。
それを良いとか悪いとか言いたいのではなく、マラソン業界はその道を選んだのだ。びわ湖毎日マラソンで優勝しても、基準タイムを超えていないと代表選考レースには出られない。その基準を変えない限り、選手はとにかくタイムの出る大会を選ぶだろう。彼らは「ベストを尽くした」では評価されない世界の住人なのだから。
この流れが市民ランナーに降りてこないことを願っている。市民ランナーにとっても自己ベスト更新は大きな目標のひとつだが、それだけがマラソンではない。マラソンというのはそんなに浅いものではない。そもそも、マラソン大会ごとにコースの高低差も違えば、気候などのコンディションも違う。同じ条件のマラソン大会などどこにもないのだ。
それを前提として考えられる市民ランナーは意外と少ない。なんとなく走りやすいコース、走りにくいコースという認識はあっても、多くの市民ランナーは「同じ42.195km」と考えて、タイムが出なかったときにガッカリする。だが、それは自分のせいではない可能性もある。同じ大会でも、気温が10℃違えばまったく違ったレースになる。
タイムが出なかったときに、その理由を客観的に考えられるかどうか。これはマラソンを走る上で、とても大切なスキルなのだが、トップランナーの走るマラソン大会がタイム偏重になると、タイムが出ない理由を走力だけに負わせる傾向が強くなるだろう。その結果、市民ランナーも「マラソンの結果は気象条件やコースでタイムは変わる」と考えなくなる。
もっともMGCシリーズの基準も元から、タイムと順位だけだったので日本陸連の偉い人は「マラソンの結果は気象条件やコースでタイムは変わる」なんて考えもしないのだろう。その結果がびわ湖毎日マラソン大会やさいたま国際マラソンの終了に繋がっていると考えると、きっとこれからも同じことを繰り返すだろう。
いずれにしても、これからマラソンは面白くなくなる方向に向かっていく可能性がある。そのなかでいかに面白さを拾うのかがメディアの役割だと、わたしは思っている。わたしのメディアは大きくはないが、これまでスピード重視を推してきた感は否めない。だが、ここからはもっと違う切り方も織り交ぜていくとしよう。マラソン業界がもっと盛り上がるためにも。