嘘か真かわかりませんが、メキシコで開催されたメキシコシティマラソンで、1.1万人が不正をして失格になったことがニュースになっていました。参加者数が3万人ですので、3人に1人が不正したことになり、さすがに何かの間違いだろうと思いたくなります。
でも、「さすがに」が普通に起きるのが海外。こういうときに自分の感覚で語るのはよくありません。事実として1.1万人が失格になったということで、おそらくギネス記録になるかもしれません。申請はしないとは思いますが、それすらネタにするのが海外ですから。
こういうとき、不正をするなら何のためにエントリーしたのだという話になります。でも、フルマラソンを走ったことがある人なら、途中でやめたくなる経験をしたことはあるはずです。スタートラインに立つまでに積み重ねた努力と当日の心理は必ずしも一致しません。
どれだけ練習を積み重ねたところで、すべてのランナーが自信を持ってスタートラインに立つわけではありません。むしろ結果を出すために練習すればするほど、当日になって不安が大きくなります。そういうとき、日本人ならリタイアや歩くことを選びます。
でも、それは日本人だからであって、メキシコ人がそうであるとは限りません。「不正は良くないこと」はあくまでも日本の文化です。いや、日本だって「バレなければ不正してもいい」と考えている人はいくらでもいます。赤信号を無視して道路を横断したことのない人のほうが少ないはずです。
もちろん今回の件が、そういうスタンスで生まれたことなのかどうかはわかりません。このマラソンを完走することで得られるステータスがどういうものなのかもわかりません。なので何も言えないのですが、はっきりしているのは人間って面白いということ。
清く正しく美しくが評価される日本において、清く正しく美しくの人はいません。理想はそこにあっても、誰にでも妬みの感情がありますし、自分の欲や利益を優先することなんて珍しいことではありません。そもそも清く正しく美しくが標準なら、それは褒められることでもありません。
褒められるのは、それが簡単ではないとみんなが知っているからこそ。ではなぜ清く正しく美しくが難しいのか。不正を拒み、誰にでも優しく、正義を守りながら生きるだけなのに、私たち人間はそれができないのはなぜなのか。
当然、それを阻害する何かがあるわけです。それは地位や名声かもしれませんし、場合によっては金銭だったりします。不正をしてそれらを得て嬉しいのかという声は無意味です。嬉しいかどうかはわかりませんが、少なくとも不正をする人にとってそれは、何かを得るために許される行為であり、必要なことなわけです。
私もフリーランスになってから8年で随分と考え方が変わってきましたが、100%利他のために動けるわけではありません。時として自分勝手なことをします。でも、それが人間という生き物であり、清く正しく美しくは不自然な姿。
それなのに清く正しく美しくを正解とする。そもそも、そこに問題があるような気がします。どことなく宗教的であり、人を統治しやすくするための詭弁のようでもあります。不正を嫌うのは自由ですが、それは自分自身を苦しめることになることは覚えておいた方がいい。
もちろん清く正しく美しく生きている自身があるなら構いませんが。他人がマラソン大会で不正したっていいじゃないですか。そんなどうでもいいことに構っているよりも、限られた時間を自分のために使ったほうがいい。少なくとも私はそう思います。