なぜ人は命を削ってまで走ろうとするのか【走る理由】

昨日は早朝の業務を行ったあと、夜まで時間があったので伊豆高原から海沿いをランニングしながら南下していきました。いわて盛岡シティマラソンに向けて2時間程度走ろうと思ったのですが、初めて走る場所というのもあってあちこち寄り道。

結局17kmの距離を2時間40分もかけて走ることになりました。私が旅ランのようなことをすると、どのコースでも大抵キロ10分くらいのペースになります。走っているときはキロ6分前後になるのですが、いかんせん寄り道が多すぎて。

目の前に海岸に通じる道があったらそちらへフラフラ、神社の階段があったら上らずにはいられません。今回失敗だったのは着替えと手拭いを用意していなかったこと。2ヶ所も海岸に温泉があったのに、どちらにも入れずに帰ってきてしまいました。

私の日々のランニングは基本的に旅ランのためにあります。マラソン大会でサブ3やサブ3.5を掲げているのも、好きなように旅ランできる体であり続けたいと考えているから。それくらいの走力がないと東北横断とかできないから。

いや、できないことはないのですが不安なんです。今年の夏に旅ランを入れなかったのは、明らかに体重が増えていて走れないことをわかっていたから。ただの歩き旅になるのは嫌なんです。何百kmの距離だって、最後まで走っていたい。

もちろん体を休ませるために積極的に歩きを入れます。昨日も何回歩いたかわかりません。でも最後はちゃんと走れている。多少の無理はしたとしても、限界まで追い込むようなことはしません。私には命を削ってまで走る覚悟はありませんので。

とても残念なニュースを読みました。東北のマラソン大会で亡くなられた人がいたとのこと。しかも石川啄木ゆかりの地を走るマラソン大会ということで、私が伊豆高原の仕事をしていなかったらエントリーしていたかもしれないような大会。

(私はこういうときに「ご冥福を……」と言葉にすることがどうしても苦手なので、その言葉を使わないことをお許しください)

大会としてはリタイアする人が続出したということで、大会を中止したとのこと。難しい判断だったと思いますが、よく決断されたと思います。運営はこういうとき中止にしても続行しても叩かれるので、だったら続行したくなるのですが、先日開催された北海道マラソンのことなども頭に入っていたのかもしれません。

そしてその北海道マラソンについて、私はこのブログで「結局はランナーの自己責任」というニュアンスのことを書きました。合わせてメディアの注意喚起が必要だとも書きましたが、こういう悲しいことが起きないようにするには、ランナー自身に判断してもらうしかありません。

そのとき「無理をすると命を落とすことになる」もしくは「厳しいコンディションで自分を追い込むことは命を削る行為である」として、間違っても褒め称えないことも大切という記事も書きました。すべての人に届くわけではないのはわかっていますが、そういう空気づくりは大切です。

暑い中走るなとは言いません。でもそれは誇るような行為ではありません。過負荷になっていると思えば歩けばいい。レース中であっても体を冷やすためにコンビニに飛び込んで、アイスを買ってもいい。それくらいの緩さを持つべきじゃないかなと。

努力は必ず報われるのは事実です。でも「努力」と「過負荷に耐える」は同じ意味ではありません。耐えることを素晴らしいと思うのは自由です。ただランニングにしても人生にしても耐えればそれだけ消耗することは頭に入れておいてください。

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