芸で身を助けたいなら汎用性の高い芸を習得する必要がある

北海道の仕事関係で何度か料理の写真撮影をしました。私が撮影した三州屋名物鳥豆腐の写真がエスコンフィールドのサイトに載るかもしれません。その他にメニュー用の写真とかもいくつか。明日も撮影があるのですが、カメラをやっててよかったなと。

しかも1年くらい前に、飲食店の撮影もしており、そこで学んだことが活かされるという。ちゃんと過去が現在に繋がっていると、自分の積み重ねてきたことが間違ってなかったと思えるので嬉しく感じます。人生経験で無駄なことなんてひとつもありませんから。

撮影ができるからRUNNING STREET 365のレビューやレポートもオリジナルの写真を使えます。これって実はとても大切なこと。写真のない大会レポートなんて誰も読んでくれないので、撮影できない人はTwitterなどSNSのリンクを貼るわけです。写真がないよりはマシですが、SNSに依存することになるわけです。

文章を書けることもそうですが、汎用性の高い芸は本当に身を助けます。ポイントは「汎用性が高い」ことです。汎用性のない芸も無駄というわけではありませんが、可能性の広がり方が狭く、まったく活かされないままというケースも少なくありません。

たとえば英語や中国語は汎用性が高く、ネイティブのように使いこなせたら、それだけで仕事はいくらでもあります。ところがアイヌ語や津軽弁を習得しても、限られた場所でしか使えず、仕事につなげにくい。勘違いしないで欲しいのですが、アイヌ語や津軽弁を覚えても意味がないというわけではありません。

芸は身を助けると言っても、なんでもいいというわけではありません。「努力は報われる」というのと同じですね。どんな努力も報われるなら、この世界はあらゆる競技のチャンピオンだらけになります。芸の中にも身を助けるものとそうではないものがあるという話。

では私がそんなことを意識して物書きやカメラ撮影をしていたかというとそうでもなく、むしろ好きなことを続けていただけ。好きなことが汎用性が高いことだったから、視点を変えれば私はただの凡人で、激レアさんには絶対に呼ばれないわけです。

ただ、みんなが良いと思えるものを自分も良いと思える感覚、それを写真や文章として表現できる能力は必ず仕事に活かされます。会社員だとそうでもないのかもしれませんが、私のように働くために生きているタイプのフリーランスにとっては、とても重要です。

アーティストのように自分だけの世界でクローズするのもかっこいいし、正直憧れるところもあります。ただ、それは活動に見合う収入があってのこと。活動に見合う喜びでも構いませんが、人間は稼がないとパン1枚も買えないわけで、生きてはいけないんです。

資本主義社会において人が生きるための大前提になっているのが、最低限の稼ぎがあるということ。そのために会社員や公務員という組織に入って働くのが最も効率がいいのですが、私のような社会に馴染めないタイプは自分の芸(能力)で食べていくことになる。

そうなると汎用性が高い芸が有効になるということ。もっとも最近はUberEatsとかもあるので、特別な芸なんていりませんが、それでも1日8時間自転車を漕ぐという能力は必要です。もしくはバイクの運転技術とか。そういう意味では、汎用性があるだけでなく、たくさん備えていることも大事かもしれません。

大学時代の恩師に「一専多能型になりなさい」と耳にタコができるほど言われましたが、この歳になってやっとその意味がわかってきました。まだ突き抜けたひとつがないので道半ばですが、多能というのは歳を重ねるごとに実現できている気がします。まぁどこにでもいるただの便利屋なんですけど、食いっぱぐれないのはちょっとした自慢です。

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