そういえば笑らわなくなっている【これは成長かそれとも退化か】

笑いながら働ければいいと昨日のブログに書きましたが、伊豆高原で仕事して鶴巻温泉で友だちとお酒を飲んで気づいたのは、笑わなくなっているということ。これが良いことなのか悪いことなのかはわかりませんが、少なくともこの2ヶ月で笑うことを忘れてしまったようです。

動画などを見て笑うことはもちろんあります。FM FUJIのラジオ番組「タイムちゃん」を聴いて爆笑しています。でも対人となると、どこか構えているのか、それとも落ち着きを手に入れたのかわかりませんが、笑うことはほとんどなく。

よく考えたら、北海道にラン仲間が手伝いに来てくれたときも、あんまり笑ってないですね。それくらい追い込まれていたからと言いたいところではありますが、今は随分と余裕があるので、どこかで笑うことを手放したのでしょう。

私が理想とするのは北方水滸伝の王進なので、ちょっとだけ近づいたような気がしています。彼もたくさん笑うタイプではなく、むしろ寡黙に生きているタイプ。ただ、敵味方関係なく誰もが頼りにしていて、言葉ではなく武術で語る。

私がそこにたどり着けていなのは、愚痴をこぼしているという点でしょうか。王進ならきっと、理不尽なことに対しても愚痴をこぼさず、目の前にある自分がやるべきことと向き合うだけ。そして後進を育て続けていたわけです。

笑わないという意味では、王進に育てられた楊令もあまり笑うイメージがありません。彼は目の前で両親を殺されたところを楊志に拾われて、その楊志も楊令を守って死んでしまい、言葉を失います。その後、林冲に鍛えられ、王進に師事し、梁山泊をまとめる漢になるわけです。

理不尽な体験を何度も重ねると人は笑わなくなり、言葉も少なくなるのかもしれません。もっとも楊令はその後、大きく変わっていくわけですが。ただそれも、次のステップに進むための経験。もちろん次のステップが何なのかは人によって違いますが。

笑っていない自分は嫌いじゃないのですが、接する人が面白くないだろうなと。私は決して聞き上手ではないのですが、せめて聞き上手であるための努力をして、言葉を引き出せる人にならないと、私の飲んでいても楽しくなくなるんじゃないかなと。

それで離れていく人がいるならそれも縁なので仕方ありません。私が変わってしまったなら、きっと付き合っていく人も変わっていく。ただ、自分に魅力がなくなるのは間違いなく、これからは交友関係も狭くなることは覚悟しておこうかと。

笑える自分を取り戻せばいいのでは?と思うかもしれませんが、寡黙であることは私の理想なので、むしろこの状況を手放すほうがもったいないというのが本音。沈黙は金なりというように、本当に必要なときだけ語るようにするのがいい。

もっともブログなんかやっているわけで、私自身の秘密なんて墓まで持っていくようなもの以外はすべてオープンにしているのだから、寡黙でもあまり意味はないのかもしれませんが。ただ作家さんによくあると「会ってみたら穏やかで思慮深い」にも近づけそうで。

こういうのは狙ってやるような話ではないんですが、いろいろ変えていくにはいい機会なのかもしれません。ただ、ちょと暗くなっているところもあるので、ネガティブな雰囲気は出さないように気をつけます。

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